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劇写真団 『第二回 劇写真団展』〔写真〕
Geki-Shashin-Dan  Geki-Shashin-Dan 2nd Exhibition  [photography]

7月4日(火)−7月9日(日) 2006
12:00-19:00(最終日16:00終了) 休廊日なし


English
(under construction)

■概要

 プンクトゥムでは7月4日(火)より、劇写真団写真展 『第二回 劇写真団展』を開催いたします。
 『劇写真団』とは、関西の大学生有志らが、2002年に結成し、2004年に解散した写真制作集団です。
 それぞれの団員が様々な役割を持ち回り、ひとつの作品を制作していくスタイルは、個人では出し得ない作品の力となって表れています。
 その劇写真団の代表作が今回、東京では初めて展示されます。
 どうかご高覧ほどよろしくお願い申し上げます。


■展示内容
 写真(大きな画像はこちらにあります)

□作品タイトル:
 喪國貴種流離潭ー天照日子、朝に向かひて矢を放たんとすること
(そうこくきしゅりゅうりたん あまてるひこ、あしたにむかひてやをはなたんとすること)
□制作:劇写真団
□監督:井上リリー
□サイズ:横5m
□素材:印画紙


■展覧会メッセージ/元劇写真団専属ライター ヘップと赤田敦

 現代に生きる男と女がふと覗いた携帯電話のカメラ、その向こう側には時空を超えた世界ーお伽話、歴史や戦争、文化、神話など、さまざまなモチーフを重ね合わせた光景が広がっています。弓を構えた神話の英雄像を中心に、映画や演劇、ドラマのコラージュのように構成された架空のユートピア「日本」。劇写真団自体はすでに解散してしまいましたが、2003年、まだ学生であった若い私たちが感じるままに構成したこの作品をお楽しみいただけたら幸いです。


■プロフィール (げきしゃしんだん) ウェブサイト

 劇写真団は、2002年夏に結成、2004年春に解散した、幻の写真制作グループです。
 関西の各大学の学生が自分の専攻や得意分野、その他のネットワークを駆使して作品の制作にあたっています。毎回、団員の一人が監督を務め、あたかも映画や演劇を作るように構想を立て、カメラ、衣装、小道具など役割分担をして独自の世界を写真で表現してきました。専門分野の異なる団員が協同して生み出す世界は、毎回変わる監督の個性によってサーカスの演目のようにさまざまな表情を見せていきます。


□団道

 劇写真団は、写真を使って表現するアート集団です。合言葉は“ザッツ アルカディア!”
 ここではないどこかを現実世界には希求しないを活動コンセプトに、 2002年7月京都にて発足しました。
 現実世界は崩壊をつづけ、救いを求めるアテもないという絶望。でも現実の世界にユートピアがないのなら、自分たちの手で作ればいいじゃないか! と私たちは考えます。
 求めるカタチを具象化する、手法や技術に恵まれている現代。私たちは、頭の中に想起する世界、身体の奥から湧きあがる世界など、生のアナザーワールドを作りあげていきます。
 劇写真団の「劇」は、演劇の「劇」、劇映画の「劇」。 説明すると、演劇的な制作方法を用いて、写真表現に取り組む集団です。また、劇的な画であれとの願いが込められた「劇」でもあります。
 劇写真団の作品づくりは、監督・制作・撮影・編集・美術・小道具など、団員それぞれが専門パートを受け持つ共同プロジェクト。ただし監督は、作品構想のプレゼンテーション後、団員全員の賛同を得た者ということになります。劇写真団の志向(嗜好?)に沿うか否かが採決のキィ。監督が作品世界の創造主です。その世界観を団内で共有した上で、プロジェクトスタート。監督によってサーカスの演目のごとく、くるくると変わる劇写真団的世界。新しいエンターテイメントとして是非ご高覧下されば、これ幸い!


□団歴

 2002年7月 井上リリーを団長に、ヘップを含むメンバー数人で劇写真団発足
 同年8月 『京都大学吉田キャンパスA号館解体記念〜青春のためのモンスターズ・ボール〜』撮影※第4回外苑フォトスタジオ賞受賞(『コマーシャル・フォト』掲載)
 同年2月 『ラーハ=チュッチュクーガ[僕のNUT JOKER]』撮影
 同年3月 『緋褥狂死曲』『閨中夜話』撮影
 同年4月15〜21日 第1回 劇写真団展〜ザッツ・アルカディア〜 @ギャラリープリンツ(京都)
 同年9月 『喪国貴種流離潭「天照日子、朝に向ひて矢を放たんとすること」』撮影
 2004年3月 『喪国貴種流離潭「天照日子、朝に向ひて矢を放たんとすること」』発表 京都造形芸術大学


 

■レビュー・感想募集
□形式、文字数など自由です。
E-mailにて御投稿願います。FAXや手紙などでは受付けておりません。ご了承ください。
□応募期間は、会期中から展示終了後1ヶ月以内にお願いします。
□氏名・メールアドレス・プロフィール・近況を明記してください。メールアドレスは一切公表いたしませんので御安心下さい。

『ドラえもん的身体と写真的身体――『第二回 劇写真団展』に寄せて
高田敦史/大学院生(東京大学総合文化研究科)/Webエディター

1.第二回 劇写真団展とは :あるいは「言わずもがなの前置き」

 7/4〜7/9にかけ、京橋のギャラリー「PUNCTUM」で『第二回 劇写真団展』という写真展が開催された。この異例な写真展で展示されたのは、なんと全長5メートルの巨大な写真一枚きりだった。また、未見の方はぜひウェブサイトなどで確認してほしいが、写真の内容も大変大がかりかつ異例なものである。「劇写真」の名前にふさわしく、そこでは異様な扮装をした男女が、まったく統一感のない絵を形づくっている。また次のことが私がこれから書く文章にとって重要な点なのだが、モンタージュ的な操作を一切経ていないにも関らず、この作品はどこかコラージュ的なものに見えた。写真展会場で販売されていた井上リリーのポスター写真集(ここには、多数のフォトコラージュ作品が収録されている)を見たものならば、なおさらこうした念を強くしたことだろう。
 以下では、この『第二回 劇写真団展』にて展示された『喪国貴種流離譚 天照日子、朝に向かひて矢を放たんとすること』について書くが、紙面の都合上、すでに解散したという「劇写真団」という団体には触れない。対象は展示作品の監督をつとめた井上リリーという写真家と、その作品に限定することにしよう。これは私の関心が、単体としてのこの作品ではなく、むしろ、この作品以降に制作された井上リリーの一連のフォトコラージュ作品への展開にあるからでもある。従って言ってみれば以下は劇写真団論ではなく、さらに井上リリー論というよりも、井上リリーにかこつけたフォトコラージュ論となっている。
 
2.ドラえもん的身体 :あるいは「傷つきうる世界の肌理」
 恐縮ながら、写真と関係ない話からはじめることにするが、かの『ドラえもん』には、意外にも身体改造をテーマとする作品が多いのをご存知だろうか。寡聞にして筆者はこの点を指摘した論者を知らないが、改めて一通り単行本を読んでみると、身体の解体・取替え・融合・変身という主題が『ドラえもん』の随所に登場するのがわかるはずである。
 代表的なものを挙げると、例えばその名もおぞましき「人間切断機」や「人体とりかえ機」などというひみつ道具が存在する(それぞれてんとう虫コミックス第10巻、第11巻に登場)。しかも、これらの道具が恐ろしいのは名前だけではない。「人間切断機」は痛みも傷も一切与えずに胴体を切断する危険な道具である。該当の短編を読むと、切断されたのび太の下半身に「電子頭のう」が取り付けられ、下半身のみが生き生きと動き回るという悪夢のような光景を目にすることができる。
 さらに、個人的にはこちらの方が好きなのだが、「人体とりかえ機」は頭・胴・手・足を他の人間のものと取り替える道具である。該当の短編では、静香ちゃんの足をつけたドラえもんや、静香ちゃんの胴体をつけたジャイアンなど、フランケンシュタインの怪物を思わせる異形のキャラクター群が登場する。
 当然ながらこうした光景はすべて『ドラえもん』特有のつねに平和な雰囲気のなかで展開するのであるが、改めて文章にしてみると、まさに江戸川乱歩の猟奇小説も真っ青のグロテスクな場面と言えるだろう。
 ただし、ここでこのようなことを書いたのは、もちろん「本当は怖いドラえもん」の話をするためではない。私が問題にしたいのはむしろ、こうした光景が『ドラえもん』において一切グロテスクな感触を与えない(あるいは改めて指摘されるまで誰も気がつかない)という平凡な事実の方である。もっと言えば、『ドラえもん』の世界は(大変残念なことに)、われわれの世界と幾つかの点で異なっているが、その内のどのような要素がこれを可能にしているのか考えてみたい。
 おそらく、われわれの身体は、いくらか『ドラえもん』の身体に似ているが、ある重要な点でそれとは異なっている。定義するようなことではないかもしれないが、無理に腑分けすれば、人の体とは違い、ドラえもんの身体は無数のユニットから成り、自在に解体/交換可能である。そこに痛みや傷は存在しない。一方、人の体は布地のようななめらかな肌理(テクスチャー)を持ち、傷つきうるし、血を流すこともある。また、ドラえもんやのび太の身体にとって皮膚は一切重要ではない。ドラえもんの肌(すでにこの表現に違和感があるが)は毛に覆われているのか、それともゴムやプラスチックのような感触であるのか、それさえ読者に明かされることはない。この意味で、ドラえもんには皮膚も肌理もない。しかしわれわれにとっては(写真にとっても)、皮膚の質感や、その他の肌理のない世界など考えることさえできないのである。
 
 
3.ユートピアの作り方 :あるいは「コラージュはドラえもんに似ている」
 そしておそらく、コラージュとは、いくらかドラえもんに似た表現の技法なのだろう。コラージュの魅力は――少なくともその一部分は――、よく言われるように、異質なものを直接接触させること、および異質なもの同士を媒介なしに衝突させることにある。また、コラージュの制作は切り貼りという二つの操作によって構成される。
 そこで改めて私になりに定義すると、コラージュの制作において「切ること」とは、本来の文脈、元あった肌理を切断し、ひとつのパーツ、ひとつのユニットを創造することである。そして、「貼ること」とは、これらのユニット群を結合し、新たな平面の上に配列する操作である。従って、コラージュの制作とは、先の「人体とりかえ機」とよく似た、解体と結合から成るマンガ的世界(ユートピア)の創造だと言えるだろう。
 しかし、写真は必ずこうした操作に抵抗する。ロラン・バルトは著名な写真論のなかで、写真を「あるがまま」「偶発性」と結びつけたが(『明るい部屋』)、私はこの有名なテーゼのデッドコピーのひとつに、「写真は世界の肌理を複写する」というものを付け加えたいと思う。キリストの遺体を写した聖骸布のように、写真というものが「それは‐かつて‐あった」という実在の感覚を強く伝えるのは、写真が世界の肌理を複写するからである。絵画や言語が「絵画らしい」あるいは「言語らしい」の肌理(質感)しか持ちえないのに対し、写真はわれわれが生きる世界のような肌理を持つことができる唯一のメディアである。だからこそ、写真の肌理に攻撃を加えることは(例えば写真をカッターナイフで切り刻むことが)、モデルへの攻撃のようにさえ感じられる。
 また、逆に言えば、だからこそコラージュ作品はしばしば写真を切り抜くのである。切断された絵画よりも、切断された写真の方がはるかにショッキングな効果を与える。こうした意味で、コラージュとは肌理を持った連続的な世界への抵抗であり、目に見えるもの、あるいは視界そのものを切り裂き、組み替えたいという欲望に対応する形式である。稲垣足穂の言葉をもじって言えば、コラージュの技法において、世界の「タッチが払拭されて、その代りにダッシュをくっつける」のだ(「タッチとダッシュ」)。
 今回の作品を含め、ユートピア(どこにも無い世界)というテーマが、井上リリーの作品にはしばしば現れる。そして、ここで言うユートピアとは、引用(切ること)と結合(貼ること)という二つの操作によって築かれる「肌理を持たない」(ダッシュのついた)世界である。加えて、このようにユートピアの作り方を二つの過程(引用と結合)に分解することで、『喪国貴種流離譚』がなぜコラージュのように見えるのかをも説明できるだろう(この作品が引用と結合から成るのは明らかに違いない)。
 もう一度繰り返すが、コラージュはドラえもんに似ている。これは言い換えれば、コラージュというものが、世界の肌理を切り裂き、非連続的なユニットから成る新たな世界を創造するための、「ユートピアの技」だということを意味する。
 
 
4.最後に :あるいは「ユートピアに剥げた芝生は無いこと」
 『喪国貴種流離譚』以降、バンクーバーで制作された井上リリーの一連のフォトコラージュ作品は、一見してコラージュを用いたことが明らかであるにも関らず、ハサミの痕を注意深く隠し、『喪国貴種流離譚』以上に完成されたユートピアを構築している。しかしそれが写真である以上、そこにおいてユートピアはつねに、現実のざらつき(肌理)と格闘しなければならない。
 実際、今回の展示のような巨大な画面で見ると、『喪国貴種流離譚』もまたコラージュ的な操作と現実とのゆれ動きのなかにあることがよくわかる。注意深く見れば見るほど、見る者は、ふとした瞬間にこれがユートピアではなく「写真」なのだと気づかされることになるだろう。例えば私にとっては、この写真の剥げた芝生がそうだった。剥げた芝生、とりわけそこから露出した砂や小石は、一言でいえばリアルすぎ、作品世界をかき乱すノイズのように感じられた(これは、もしかすると、下草の手を刺す固い感触や、砂の手触りを思い出すせいかもしれない)。思うに、この作品のような幻想的な世界には、ふかふかの緑の絨毯のような、もっと一様に柔らかな芝生が広がっているべきではないだろうか。
 井上リリーがフォトコラージュの技法を全面的に導入して以来、こうした写真的なノイズによって現実に引き戻されることは目に見えて少なくなった。だが、それと同時に身体の主題が前面に出てきたことが、注目に値する。
 なぜならば、人間の身体こそ、もっとも強くコラージュ的な世界の組み換えに抵抗するものだからだ。単純に言って、机と椅子を解体し、組み替えたところで、ほとんど何の衝撃も得られないだろう。しかし、人間の身体はそうではない。人体を組み替えることは、つねに冒涜的で痛ましい感じを与える。
 そのためかどうかは知らないが、フォトコラージュを駆使し、楽しげなユートピア的空間を創造する一方で、井上リリーの写真は、絶えず人間の身体の痛ましさへと向き合おうとしている(これは特に近年の作品に顕著である)。従って、多少大げさなことを言えば、あたかも傷つくということが存在しないかのように日々組み替えられる現代世界のなかで、人間の体がどこへ向かおうとしているのか、その答えを知るために行われる人体の耐久実験こそ、井上リリーの作品なのだと言えるかもしれない。
 いずれにせよ、こうした二つの軸の葛藤が井上リリーの写真を魅力的なものにしているのは間違いがない。



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